京都美商ギャラリー 京都美商ギャラリーは、1961年に京都下鴨で創立した西洋アンティーク・肥前磁器の専門店です。長年蒐集をしてきた経験をもとに、オールドバカラやオールドフランス、古伊万里や柿右衛門などを取り扱っております。量産品ばかりの近年では見られなくなった職人技、手作りの温かみの魅力をより多くの方に身近に感じて頂きたいと考えています。

柿右衛門

日本初の磁器誕生に貢献した
柿右衛門

 

初代酒井田柿右衛門によって始められた柿右衛門窯は、現在十五代まで続いています。染付磁器焼成の成功(1629年頃)から数えるとおよそ380年の歴史となります。

 

十二代柿右衛門
<十二代柿右衛門>
 
 
 
十三代柿右衛門
<十三代柿右衛門>
 
 
 
十四代柿右衛門
<十四代柿右衛門>
 
 
 
柿右衛門家の母屋と柿の木
<柿右衛門家の母屋と柿の木>
 
 
 

これより少し遡る1616年頃、朝鮮より渡来した李三平という陶工が有田郷泉山で陶土を発見したことによって、日本初の磁器は誕生しました。
中国、景徳鎮窯の染付の模倣からスタートした伊万里焼でしたが、磁器焼成の成功から約30年後(1647年頃)に初代柿右衛門が上絵付けの開発に成功し、華麗な錦手の器が誕生しました。伊万里焼が作り上げた色絵磁器には柿右衛門様式、古九谷様式、鍋島、古伊万里様式など多彩を極め、その多くが17世紀後半から18世紀前半にかかる100年ほどの間に焼かれています。伊万里焼に黄金時代がもたらされたのは、1659年のオランダ東インド会社からの膨大な注文によるものでした。力作5万6700点に及ぶ品々の出来栄えは素晴らしく、瞬く間にヨーロッパ富裕層を虜にし、その後の相次ぐ大量の追加注文によって有田に活気溢れる時代が訪れたのです。

1660年代初期の柿右衛門様式の名作は、燃えるような赤絵が鮮烈で、器を埋め尽くす構図は精緻を極めており、大変迫力がありました。日本人の好みとは程遠いものでしたが、当時ヨーロッパで流行していたバロック趣味の城を飾るには打ってつけのデザインでした。
そして、次第に洗練されたタッチで軽快、優雅に絵付けをする柿右衛門様式が醸し出されてゆきました。それは伊万里の作陶が頂点に達してゆく途上である1680年頃のことです。
こうして頂点にたどりついた柿右衛門様式の色絵磁器の真骨頂は、ヨーロッパ人の東洋趣味が育て、日本人の美意識によって新たなスタイルへと転換していった中国様式である、というところにあります。ヨーロッパとアジアが融合することによって昇華した柿右衛門の色絵磁器は、世界が一つになったことを象徴する時代の申し子なのです。
1720年頃にはマイセン窯をはじめヨーロッパで柿右衛門様式の色絵磁器を忠実に写すことができるようになり、有田では国内へ向けた生産にシフトしてゆきました。

 

 
柿右衛門様式 1680年頃
<柿右衛門様式 1680年頃>
 
 
シャンティー柿右衛門写し 19世紀
<シャンティー柿右衛門写し 19世紀>
 
 
 

現代柿右衛門様式への転身

 

ヨーロッパへの輸出が途絶えた江戸後期、販路を失った有田は低迷を続けました。藩財政の窮乏により有田で生産が命じられる品は日用品などの量産が主でした。九代、十代柿右衛門も例外ではなく、染付の角皿や色絵の変形皿の制作が主でしたが、量産体制の中にあっても柿右衛門窯の職人が精魂こめて描いたことが感じられる丁寧な仕上がりのものばかりです。十二代柿右衛門以前の作品には現在のように裏銘が描かれていないため、柿右衛門窯でつくられたものかどうかの判別が難しいのですが、中には裏銘が入っているものもあり、これらを研究し総合的に判断しています。

明治になり藩による後ろ盾が無くなった有田で、低迷を続ける柿右衛門窯の指揮をとったのは十一代柿右衛門です。日常雑器を焼く傍ら、最盛期の柿右衛門窯の復興に情熱をそそいだ人物です。柿右衛門という名が再認識されるきっかけとなったのは、1912年、片岡仁左衛門による歌舞伎「名工柿右衛門」の上演でした。染付の食器の制作が中心ではありましたが、十一代の作り出す丁寧な成形に入念な絵付けが施された品質の良い作品は世に知れるところとなりました。

 

 
九〜十代柿右衛門 1820年〜60年頃
<九〜十代柿右衛門 1820年〜60年頃>
 
 
 

十一代の遺志を受け継いだ十二代は、1680年頃にデザイン、技術両面で最盛期を迎えた柿右衛門様式を復興したいという強い思いを持っており、酒井田家に残る元禄三年(1700)に書かれた『土合帳』や『赤絵之具覚』などの解読を進めました。依然として窯の経営が苦しかったため染錦の食器の生産が主ではありましたが、ろくろや絵付けは丁寧で素晴らしく、また有田の泉山陶石を使用するなど十二代のこだわりが随所に表れています。
こうした長年の努力と研究の成果が実を結び、1953年(昭和28)には約250年ぶりに濁手の復刻に成功しました。十二代はすでに75歳になっており、亡くなる10年前のことでした。濁手の復興には十三代も十二代とともに尽力しました。

 

 

濁手の復興作品
<濁手の復興作品>

 

1963年(昭和38)に57歳で襲名した十三代は、亡くなるまでの20年間で、ようやく復刻に成功した濁手を更に広めること、また十三代独自の新意匠の創作に挑戦しました。「赤絵の家門に生きることの厳しさと楽しみをかみしめながら筆をとっている」という言葉のとおり、十三代は柿右衛門窯の伝統を活かした新境地を開拓しました。
十二代、十三代から指導を受けた十四代は、歴代の中でも最も色鮮やかな赤と白い素地から生まれる美しさにこだわりを持って制作しました。日本画を専攻した十四代の描く花々は、どれも繊細でやさしさがあります。

 

十二代柿右衛門の作品
<十二代柿右衛門>
 
 
十三代柿右衛門の作品
<十三代柿右衛門>
 
 

 

十四代柿右衛門の作品
<十四代柿右衛門>

 

 

ふたつの柿右衛門

 

十二代が襲名した大正初期は、第一次世界大戦の長期化に伴い景気の厳しい時代でした。この時代背景と共に、柿右衛門窯も厳しい経営状態から転業寸前にまで追い込まれて行きます。この時、十二代を救ったのが実業家である小畑秀吉です。
1919年(大正8)に「柿右衛門焼合資会社」を設立し、小畑秀吉と十二代は共同経営者となりました。しかし、実業家・小畑と職人・十二代との意見は合わず1928年(昭和3)には十二代は会社を脱退しましたが、柿右衛門焼合資会社は1969年(昭和44)までの約50年間制作を続けました。量産品に近いものもありますが、中には優れた作品もあり、合資会社にも優れた職人が登用されていたことが分かります。

 

柿右衛門焼合資会社の作品
 
柿右衛門焼合資会社の作品
<柿右衛門焼合資会社>
 
 
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